中国京劇雑記帳

京劇 すごく面白い

コラム 映画から京劇 さらば、わが愛 覇王別姫

2024/02/01更新

 

 中国映画「さらば、わが愛 覇王別姫」の題材である京劇について解説。

 2002年当時に記した内容です。映画ご鑑賞後にどうぞ。

 

映画データ

さらば、わが愛 覇王別姫

原題「覇王別姫

出演 レスリー・チャン(張国榮) コン・リー(鞏俐) チャン・フォンイー(張豊毅) グゥ・ヨウ(葛優

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1993年カンヌ国際映画祭パルムドール賞受賞

1993年度ロサンゼルス映画批評家協会外国語映画賞受賞

1993年度ニューヨーク映画批評家協会賞外国語映画賞助演女優賞受賞

1993年度ゴールデン・グローブ賞外国語映画賞受賞

 

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Asmik Aceサイトより引用
https://www.asmik-ace.co.jp/lineup/1151

 京劇というと1990年代に世界を席捲した中国映画のこの作品を思い浮かべる人が多いと思います。

 中国の激動する時代に翻弄された京劇役者たちの人生を描いた映画です。

 

 

 監督の陳凱歌はインタビューで「モデルはいない」と言っていますが、いろいろと連想させられます。

 まず、題名にもある京劇《覇王別姫》は名優・梅蘭芳(1894-1961)と楊小楼(1878-1938)コンビの当たり演目。

 ほかにも映画に出てくる京劇《貴妃酔酒》は、いろいろな俳優によって演じられてきた中で梅蘭芳が演じたものが特にいい評判を得ました。今では《貴妃酔酒》と言えば梅(蘭芳)派のレパートリーというイメージが固定しています。

 

 

 この《貴妃酔酒》をはじめとした梅蘭芳が演じる演目の脚本を整理したり時代考証について助言を与えるなど、ブレインとなっていたのが斉如山という学者です。

 京劇の魅力は一般大衆はもちろん知識階級ももれなくとらえ、知識人と役者のコラボレーションが生まれたのでした。それによって芸術性の完成度が高くなり、京劇はさらなる飛躍を遂げました。名優には音楽監督の琴師と演出家のインテリがつきもの。

 

 

 これらのことからレスリー・チャン演じる程蝶衣のモデルが梅蘭芳チャン・フォンイー演じる段小楼のモデルは楊小楼(名前が似てますね)、グゥ・ヨウ演じる袁四爺のモデルが斉如山が思い浮かびます。

 

 

 「清代を知るには小説『紅楼夢』を読むのが一番いい」というのを聞いたことがあります。楽しみながら世界が開けて教養も深まるのは本当にうれしいものです。いい小説を読んだりいい映画を見たりするのは実に楽しい。

 この映画は北京と京劇の味がいっぱい散りばめられています。以下、ちょっと思いつくまま、私のわかる範囲でいろいろ挙げてみようと思います。

 

音楽

 映画を通してよく奏でられている京胡の音色。場面の盛り上がりや、場面のつなぎで鳴っているのは「西皮」の「小拉子」をいろいろとアレンジしているものです。

 

 

 程蝶衣が「小豆子」、段小楼が「石頭」と呼ばれていた頃。劇団に入れるためにお母さんが指を切ったとき、練習が辛くて逃げ出した小豆子たちを引き止めなかった石頭が師匠に追いまわされているとき、また、小豆子が程蝶衣となってからアヘンを吸って恍惚としているとき。

 これらの場面に流れる「ほあ~ん」という不安げな響き。この音は私が初めて長期滞在のため北京に来たその日、ちょっと疲れたなぁと横になった途端聞こえてきたのでした。「誰か今あの映画みてる??」とびっくり。外から聞こえてくるようだったので窓を開けてキョロキョロと探してしまいました。のちほど知ったのですが、鳩の足に喇叭がついていて空を飛ぶ群れの音なのだそうです。しょっちゅう耳にした寒空に響くあの音は、まさに北京の音と言えます。

 

 程蝶衣と段小楼が売れっ子になってから、「催場」という劇場の進行役がなかなか出てこない二人を急かしに来るシーン。そこで鳴っているのは「鑼鼓経」(銅鑼や太鼓の楽譜)のひとつ「急急風」。映画の中でよく鳴っています。

 

 

 蝶衣が日本軍に捕まった小楼を救うために、日本軍将校・青木の前で唱った崑劇の《牡丹亭》のシーンは楽隊も映っています。崑劇と京劇の違いは楽器に出ています。崑劇は笛がメインで音域も低め、ゆったりまったりとした感じです。

 

 コン・リー演じる菊仙が首を吊って自殺してしまうシーンで、バックに流れている「聴奶奶講革命~」という唱は革命現代京劇《紅灯記》のヒロイン・李鉄梅が自分の出生を聞かされて驚く場面の唱です。

 

 

科班

 小豆子と石頭が学んだ「科班」(俳優養成所兼児童劇団)の名は「喜福成」。これを聞いて連想せずに入られないのが実際にあった「喜連成」です。多くの名優たちを輩出してきました。

 ぼろぼろな練習場所の上のほうには人物が複数描かれた長方形の大きい画が掛けられています。あれは「同光十三絶」といって京劇の黎明期である清代の同治、光緒年間に活躍した十三人の役者が描かれているものです。

 

 

 小豆子がレンガを積んで開脚させられて泣き喚いているそばで、石頭たちがやっているのは「基本功」という基礎訓練の「踢腿」です。

 罰を受けるときに石頭が手にする魚の形の板は《蘇三起解》などの芝居で使われる罪人の首と手を拘束する枷です。

 

 首を吊ってしまう小癩子が、この世で一番美味しいものとして挙げていたサンザシは今でも寒い時期になると売っています。

 バリバリな甘い蜜に酸っぱいサンザシの組み合わせは絶妙。今ではバリエーションも増えて、ミカンや小豆の胡麻和えのものもあります。南方でも売られているようですが「暖かいところだと蜜が溶け出して食べにくい。あれはやっぱり寒い北方の冬の風物詩だ」と友人が言っていました。北京は近年の目まぐるしい経済発展で空気がひどく汚れています。サンザシは大抵そのまま刺しっ放しの晒されている状態で売られているので北京ッ子でも「衛生的に心配だから買わない」と言っているのを聞くことがあります。

※1990年代後半から2000年代頃の状況です

 

業界用語・ことわざ

 劇場支配人・那老板が喜福成科班に来るシーン。

 彼の目的は「堂会」です。これは昔、有力者が誕生日などの祝い事に人気の役者やお気に入りの役者、劇団を家に招いて開かせた公演です。プライベートなものなので、主賓が好む演目をやったり、主賓が「票友」(自ら唱ったり、演じたりして芝居を楽しむアマチュア)となればお気に入りの役者と共演したりしました。

 

 

 その最たるものはやはり西太后が有名でしょう。無類の芝居好きだった彼女は頻繁に宮廷へ一流の役者たちを招き入れて夢の共演を繰り広げさせました。役者にとっても宮廷に入ることはこの上ない名誉であり、また、一流の役者たちがお互いに交流する絶好の機会でした。こうして京劇界はますます活性化し、国のお墨付きをもらったことで京劇はますます盛んになったというわけです。

 

 

 話を映画に戻します。この「堂会」の主賓である張宦官はあの西太后と一緒に観劇していたのだ、つまり、それほどの眼力を持つ彼を満足させるのに生半可な芸を見せたらただでは置かないと支配人は師匠たちに向って言っています。

 

 また、劇場支配人が小豆子の力量を見ようとするシーンで「男怕夜奔、女怕思凡」という業界のことわざを言って《思凡》の台詞を聞くところがあります。「怕」とは「おそれる」という意味です。

 《夜奔》は水滸伝の英雄・林冲がやむにやまれず逃げる模様を演じる芝居です。衣装はシンプルで実にカッコいいですが舞台の上でただひとり、ひたすら台詞、唱、動きをやる芝居。つまりそれだけ一挙手一投足に重みがあり、しっかりとした演技ができていないと場が持たないということ。

 《思凡》も舞台の上でたたひとり「つまらないわ。私だって恋もしたいのに」と心の中を吐露する十代の尼僧のお芝居。これらは特に基本はもちろん力量がないと「まだやってるの?」と観客が退屈してしまう恐ろしい芝居です。

 

 

 蝶衣と菊仙が初めて顔を合わせて小楼をめぐって楽屋で対決(?)するシーン。

 「習ったことがないならくだらない芝居はやめることだね」と蝶衣が菊仙に冷ややかに言う台詞の中で使われる「洒狗血」(直訳すると『犬の血を撒き散らす』)という言葉は業界用語。役者が観客から拍手を得ようとオーバーに演技をすることを意味します。役者ひとりが盛り上がって観客が退く、という寒い状態のことです。

 

 自暴自棄になってアヘンに溺れている蝶衣に劇場支配人が「ヒロインは手紙を焼くものですよ」と言うそのヒロインとは清代の小説『紅楼夢』のヒロイン・林黛玉のことです。京劇《黛玉葬花》という芝居は梅(蘭芳)派の代表作です。

 支配人が蝶衣の代わりに扇子を破ってしまうのも『紅楼夢』ものの芝居《晴雯撕扇》になぞらえています。

 

 現代京劇について蝶衣が芝居について語るところで「声が歌になり動きが舞となる」と言っていますが、それに似ているのが前掲の梅蘭芳のブレイン・斉如山の言葉で「有声必歌、無動不舞」というのがあります。京劇における演技の持つ音楽的、舞踊的表現の特徴のことを言っています。

 

演技

 実際の京劇の俳優が演じているところが随所にあります。 

 小豆子がデビューする《覇王別姫》でうたっているのは韓冬柏。梅蘭芳の息子・梅葆玖を師と仰ぎ、北京京劇院梅蘭芳京劇団に所属しています。

 石頭の役を演じていた費洋は北京京劇院所属。よく孫悟空を演じる注目の若手武生です。

 程蝶衣として舞台に立ってからの唱は北京京劇院の男旦(女形)・温如華です。

 

 

 日本軍が北京を制圧した後、蝶衣が《貴妃酔酒》を演じているときにビラが上から降ってきて客席がザワザワしだすものの、それを全く気にすることなく芝居を続けるシーン。

 クルクル回って最後に体をひねってパタリと倒れる技を「臥魚」と言います。倒れるところはレスリー・チャンご本人ではないのかも?

 京劇を演じた経験は全く無かったというレスリー・チャン。撮影が始まるかなり前から北京入りして準備をしたそうです。小さいころからの修練で会得していく伝統芸能を演じる困難を乗り越え、もともと持つ際立ったスター性と相まって実に美しかったです。