初出 2003/10/04
- 何桂山(1841-?)
- 黄潤甫(1845-1916)
- 金秀山(1855-1915)
- 銭金福(1862-1937)
- 金少山(1889-1948)
- 郝寿臣(1886-1961)
- 侯喜瑞(1892-1983)
- 裘盛戎(1915-1971)
- 袁世海(1916-2002)
何桂山(1841-?)
名前を宝慶、九林。俗には「九何」と呼ばれた。
幼い頃保定全慶園で芝居を学び、劉大頭、汪正士に拝師。三慶班に入り、長年に渡って程長庚と共演する。後に春台班に入り、兪菊笙と共演する。レパートリーが多く、優美な昆劇動きで「昆浄第一」と評された。弟子に劉永春、金秀山、裘桂仙、唐永常らがいる。
黄潤甫(1845-1916)
満族。北京人。架子花臉。
もともとは「翠峰庵」票房の票友であったが、四喜班の朱志学に拝師し、架子花臉の芝居を学ぶ。三国志ものの曹操役が得意で「活き曹操」と評された。弟子には侯喜瑞、董俊峰がいる。
金秀山(1855-1915)
満族。北京人。銅錘花臉。
「翠峰庵」票房でうたっていたが、後に徳珺如の紹介を経て正式に劇団に入り、何桂山に拝師。同慶班で長年に渡って譚鑫培と共演する。唱は師の何桂山のほかに穆風山のやり方も吸収し、独自の芸風を作り上げ、影響を与えた。
銭金福(1862-1937)
満族。北京人。武浄、架子花臉。
幼い頃に全福昆曲科班に入る。全福班解散後、四箴堂科班に入り、于双寿、崇富貴から芝居を学ぶ。卒業後、譚鑫培、楊小楼、余叔岩らと共演する。立ち回りに優れ、把子功(槍や刀などの道具を使った動き)を得意としていた。息子に銭宝森(1893-1963)がいる。
金少山(1889-1948)
名を仲義。金秀山の息子。銅錘花臉、架子花臉。
幼い頃に父から芝居を学び、銅錘花臉の芝居を得意とした。何桂山、韓楽卿、何通海、劉永春らから架子花臉の芝居を学ぶ。ただし、正式に拝師したのは小生の徳珺如であった。保勝和班に入ったが、後に煙台、上海へ移って公演した。ノドが回復してから梅蘭芳と共演した《覇王別姫》で項羽を演じて好評を博し、「金覇王」を呼ばれた。「包拯」の芝居が得意で、「曹操」の芝居を得意とした郝寿臣と並んで「黒金白郝」と言われた。1937年に北京に戻り、自ら「松竹社」を結成した。レパートリーが広く、「十全大浄」(完全無欠の花臉役者)と評された。
郝寿臣(1886-1961)
河北香河人。幼い頃に父と共に北京に移る。架子花臉。
七歳の時に呂福善から芝居を学び、芸名を小奎禄とした。声変わりの時期は東北の各地で公演をし、唐永常、閻宝恒、朱子六らから指導を受ける。唱い方は叔父の金秀山、動きは黄潤甫のやり方で演じた。楊小楼、高慶奎、馬連良、言菊朋、程硯秋、朱琴心、徐碧雲らと共演し、多くのキャラクターを創造した。金少山、侯喜瑞と三人で「花臉三傑」と言われた。弟子には王永昌、袁世海、李幼春、周和桐、王玉譲らがいる。
侯喜瑞(1892-1983)
字を靄如、河北衡水人。回族。架子花臉。
11歳の時に富連成科班に入り、先に梆子の老生を学んでいたが、蕭長華、韓楽卿から京劇の架子花臉を学ぶ。立ち回りが得意でレパートリーが多く、卒業後は黄潤甫に拝師。楊小楼、高慶奎、梅蘭芳、荀慧生、程硯秋、尚小雲、孟小冬らと共演した。弟子には関鴻賓、馬崇仁、袁国林などがいる。晩年、中国戯曲学院、北京市戯曲学校で教鞭をとった。
裘盛戎(1915-1971)
名浄・裘桂山の次男。父は何桂山の弟子であり、穆風山の影響を受けた。長年に渡って余叔岩、言菊朋と共演した銅錘花臉。
幼い頃から父について学び、十三歳の時に富連成科班に入って蕭長華、葉福海、王連平らから学ぶ。1934年に卒業後、楊小楼、金少山の劇団に入る。後に自ら劇団を結成し、主演をする。花臉の看板役者として、金少山に継ぐ世代の第一人者となった。1950年代に北京京劇団成立の時には副団長を務め、馬連良、譚富英、張君秋、李多奎らと共演した。夏韵龍、方栄翔、李長春、息子の裘少戎らがその芸風を受け継いでいる。「十浄九裘」(花臉が十人いたら九人は裘派)と言われるほどその芸風は受け入れられている。
袁世海(1916-2002)
本名を袁瑞林。北京人。架子花臉。
八歳の時に許徳義から基礎を学び、呉彦衡から老生を学ぶ。1927年に富連成科班に入って先に老生、後に架子花臉を蕭長華、葉福海、王連平、孫盛文らから学ぶ。郝寿臣に拝師。馬連良、尚小雲、周信芳、蓋叫天、李少春、葉盛章らと共演した。新しい芝居に挑戦し、新たな役柄を創造して自らの芸風を確立させていった。