中国京劇雑記帳

京劇 すごく面白い

歴代の主な京劇俳優 武生

2003/07/26初出 2023/01/10更新

 

 

兪菊笙(1838-1914)

 名を光耀、玉笙、号を潤仙。祖籍は揚州、北京生まれ。
 幼い頃に張二奎の家にあって楊双喜(楊小楼の祖父)から武旦を学ぶ。のちに春台班に入って武生を演じるようになった。武旦の技を取り入れるなど創意工夫を重ねて自らの芸風を確立した。他にも《挑滑車》の高寵はもともと藍色の臉譜を施して武浄がやる芝居であったが、これを俊扮に改めて武生が演じる芝居に変え、今では武生の最も代表的な芝居となっている。彼の芸風を継いでいるのは尚和玉、楊小楼、息子の兪振庭などがいる。

 

黄月山(1850-1900)

 天津人。体格がいいことから「黄胖」と呼ばれた。
 幼い頃に武生を学び、最初に保勝和班、玉成班に入る。清・同治末に上海で公演をしていて、光緒十六年(1890)に北京に渡る。崇祝、瑞勝和、玉成班などで公演をした。唱と念も得意であった。後継者には主に李吉瑞、瑞徳宝、馬徳成、李桂春などがいる。

 

李春来(1855-1925)

 名をを起山。河北新城人。
 幼い頃、豊台喜春台梆子科班で最初は武丑、のちに武生を学ぶ。二十一歳の時に上海に住居を決めて、春仙、春桂、桂仙班などで公演をする。南派武生の創始者と言われる。門下に蓋叫天、張徳俊、高福安などがいる。

 

尚和玉(1873-1957)

 名を璧。河北宝坻人。
 九歳のときに玉田県九和春科班に入って芝居を学ぶ。のちに兪菊笙に拝師。張玉貴から兪(菊笙)派の芝居を学ぶ。天津、北京、煙台などで公演をする。中華戯曲専科学校、富連成、栄椿社、天津稽古社などの科班で指導し、晩年は中国戯曲学校で人材育成に費やした。弟子には韓長宝、張徳発、娄廷玉、侯永奎、孫盛雲、傅徳威らがいる。

 

楊小楼(1878-1938)

 名を三元。祖父は武旦の楊二喜、父は老生、武生の楊月楼。譚鑫培の義子(養子:親子の契りを交した子)。原籍は安徽懐寧、北京生まれ。
 幼い頃に小栄椿科班に入って、楊隆寿、姚増禄、楊万青から武生を学ぶ。十七歳で卒業後、北京、天津の劇団で助演をする。義父の譚鑫培と王楞仙、王福寿、張淇林、牛松山らから指導を受け、兪菊笙に拝師。二十四歳の時に宝勝和班に入って「小楊猴子」の名で公演し、評判を得る。また同慶班において譚鑫培のもとで看板役者に成長する。二十九歳の時に昇平署に選出され、西太后から賞賛を得る。譚鑫培、陳徳霖、王瑶卿、黄潤甫、梅蘭芳、尚小雲、荀慧生、高慶奎、余叔岩、郝寿臣などと共演し、陶咏、桐馨、中興、崇林、双勝、永勝班などを結成した。当時は梅蘭芳と余叔岩とともに「三賢」と呼ばれ、京劇界を代表する人物であった。「武生宗師」の名誉を受けた。楊派武生では、孫毓堃、劉宗楊、高盛麟、沈華軒、周瑞安などがいる。また、李万春、李少春、王金璐、厲慧良も流れを汲んでいる。

 

蓋叫天(1888-1970)

 元の名を張英傑、号を燕南。河北高陽人。
 幼い頃に天津の隆慶和科班で武生と老生を学ぶ。長年に渡って上海、杭州で公演をする。南派武生の創始者・李春来の芸風を受け継ぎ、それを自己のものに昇華していった。特に水滸伝の登場人物のひとり・武松の芝居を得意とし、「江南に活き武松あり」と言われた。子の張翼鵬、二鵬、剣鳴(小蓋叫天)は皆、武生を演じている。