中国京劇雑記帳

京劇 すごく面白い

歴代の主な京劇俳優 老生(3)

初出 2003/03/21 2022/08/23更新

 

 

周信芳(1895-1975)

 字を士楚、芸名を麒麟童。浙江慈渓人。江蘇省清江浦に生まれる。
 六歳の時に青衣を演じる父・周慰堂(芸名を金琴仙)に随って杭州を旅して陳長興から学ぶ。七歳のときに初舞台を踏む。そのときの芸名が「七齢童」。1906年からは王鴻声に随って漢口へ公演に行く。1907年には上海で「麒麟童」と名を変える。1908年には北京の喜連成科班に入り、梅蘭芳、林樹森、高百歳と共演する。1912年に上海に戻り、新舞台などの劇場で譚鑫培、李吉瑞、金秀山、馮子和らと共演し、薫陶を受ける。上海で公演を重ねる一方、北京・天津でも公演をし、その個性的な芸風から「麒派」と呼ばれるようになる。新しい芝居を意欲的に次々と創作していった。

 

馬連良(1901-1966)

 字は温如。回族。北京人。
 九歳のときに北京の喜連成科班に入り、葉春善、蕭長華、蔡栄貴、茄莱卿などから学ぶ。最初に武生、後に老生を学ぶ。二十三歳の時に自ら劇団を結成し、銭金福、王長林の協力を得て看板役者としての地位を確立する。譚鑫培、孫菊仙、劉景然、特に賈洪林から演技指導を受け、余(叔岩)派芸術の長所を吸収し、自らの条件と経験から彼独特の「馬派」の芸風を生んだ。二十年代から六十年代に衰えることなく人気を博した。脚本や演技の改良、研究のほかに舞台衣装や舞台道具など芝居全体に渡って創意工夫を試みた。弟子、門下生は南北各地に数多くいる。

 

譚富英(1906-1977)

 名を豫昇。譚鑫培の孫、譚小培の息子。
 十二歳の時に富連成科班に入り、葉春善、蔡栄貴、雷喜福などから指導を受ける。1923年に卒業後、碧雲霞、雪艶琴、荀慧生、筱翠花(于連泉)、尚小雲らと共演する。1934年からは自らが主演として劇団を結成。1949年には裘盛戎と太平劇社をつくり、後に北京京劇団と名を変えて馬連良、張君秋、趙燕侠などが続々と参加する。1950年代から60年代にかけて高宝賢、孫岳、李崇善が門下に入る。息子の譚元寿は富連成社科班で先に武生、後に老生を学んでいる。

 

孟小冬(1907-1977)

 本名を若蘭、字を令輝。北京人。祖父は文武老生兼武浄の孟七、父・孟鴻群、叔父・孟鴻栄(小孟七)は文武老生。
 家庭から受けた影響で幼い頃から舞台に立ち、九歳のときに仇月祥から孫(菊仙)派老生を学ぶ。また、陳秀華に拝師、譚派老生を学ぶ。後に余叔岩に拝師。余叔岩から直接教えを受けてその芸風を最もよく受け継いでいる女性。

 

楊宝森(1909-1958)

 字を鐘秀。原籍は安徽合肥。曽祖父・楊貴慶は刀馬旦。祖父・楊桂雲は花旦、父・楊孝方は武生兼浄。叔父の楊孝亭は花旦、従兄弟の楊宝忠は琴師。
 陳秀華、鮑吉祥に拝師。余(叔岩)派を学ぶ。斌慶社科班に入り、卒業後は筱翠花(于連泉)、程硯秋、荀慧生らと共演する。声変わりによって以前あった長所を失ったために研究を重ねて自らの芸風である「楊派」を確立する。継承者として程正泰、馬長礼、梁慶雲、朱雲鵬、李鳴盛などがいる。

 

奚嘯伯(1910-1977)

 満族。北京生まれ。
 幼い時から京劇が好きで、言菊朋に拝師。譚(鑫培)派を学ぶ。のちに余叔岩からも学び、高慶奎、時慧宝、王風卿らの長所を吸収する。二十二歳のとき、天津で尚和玉の玉成班に入って俳優となる。1933年からは楊小楼、尚小雲、馬徳成、雪艶琴、新艶秋、章遏雲、李香匀らと共演する。1935年からは自ら劇団を結成し、春和戯院で公演をする。翌年、梅蘭芳と天津・中国大戯院で共演する。彼の芸風はのちに「奚派」と呼ばれるようになる。

 

李少春(1919-1975)

 河北覇県人。父・李桂春は南派を代表する俳優。
 幼い頃父に従って上海へ渡り、十一歳の時に余(叔岩)派の陳秀華から老生の芝居を学ぶ。また、楊(小楼)派の丁永利から武生の芝居を学ぶ。後に余叔岩に拝師。文武ともに優れ、新しい芝居にも挑戦していった今でも人気の高い俳優である。