中国京劇雑記帳

京劇 すごく面白い

歴代の主な京劇俳優 青衣・花旦(1)

2003/04/25初出

 

 

陳徳霖(1862-1930)

 名を鈞璋、字を麓畊、号を漱雲(一説では痩雲)、小さい頃の名を石頭。原籍は山東黄県。北京生まれ。
 十二歳の時に全福昆曲科班で昆劇の旦を学び、芸名を金翠と言った。のちに四箴堂科班に入って程章圃に刀馬旦を学び、朱蓮芬と朱洪福から昆劇の芝居を学ぶ。卒業後三慶班に入り、田宝琳から皮黄の青衣を学ぶ。名票友の孫春山から唱を学び、時小福と余紫雲の影響を受け、梅巧玲からも直接学んだ。譚鑫培、孫菊仙、兪菊笙、劉鴻声、王楞仙、楊小楼、梅蘭芳、余叔岩、高慶奎らと共演した。梅蘭芳、王蕙芳、姜妙香、王琴儂、姚玉芙が弟子入りしている。

 

王瑶卿(1881-1954)

 本名を瑞臻、字を稚庭、号を菊痴。祖籍は江蘇清江。北京生まれ。昆劇俳優・王絢雲の長男。
 九歳のときに田宝琳から芝居を学ぶ。三慶班で崇富貴について練習を積み、のちに謝双寿に拝師。張芷荃、杜蝶雲から青衣と刀馬旦の芝居を学ぶ。十九歳のときに福寿班で公演をし、時小福、李紫珊(万盞灯)、陳徳霖などから指導を受ける。二十三歳のときに昇平署の学外民籍学生に選ばれ、宮廷でも公演をするようになる。1906年に同慶班に入り、譚鑫培と共演を重ねる。1909年に自ら劇団を結成し丹桂園で次々と新作を公演する。今まで老生が主流だった京劇の舞台は様相を変え、「王派」を確立する。四十六歳のときにノドを痛めて舞台を離れてから、戯曲教育に力を入れるようになる。梅蘭芳、程硯秋、尚小雲、荀慧生、芙蓉草(趙桐珊)、筱翠花(于連泉)、栄蝶仙、徐碧雲、朱琴心などが指導を受けている。

 

馮子和(1888-1941)

 本名を旭初、字を春航。江蘇呉県人。父・馮三喜は四喜班に所属していた。
 幼い頃より父から青衣、花旦を学ぶ。九歳のときに上海の夏家班に入り、夏月珊に拝師。青衣の芝居は時小福、花旦の芝居は路三宝の演じ方をもととする。容貌が上海の有名な青衣俳優・常子和に似ていたので「小子和」の名前で舞台に登る。“春航義務学校”を立ち上げて趙桐珊、周五宝、王霊珠、李少棠など五十人余りの学生を擁した。

 

欧陽予倩(1889-1961)

 本名を欧陽立袁、号を南傑、芸名を蓮笙、蘭客、ペンネームを春柳、桃花不疑庵主。湖南瀏陽人。
 1902年に日本にわたり、成城中学、明治大学早稲田大学文学科で勉強する。1907年に「春柳社」に参加。李息霜、曾孝谷、陸鏡若らと東京で話劇(現代演劇)「黒奴吁天禄」(アンクル・トムの小屋)を公演。後に上海で「新劇同志会」を結成して話劇の公演を重ねて、中国における話劇の土台を築く先駆者となる。1914年から京劇の新作を手がけるようになる。陳祥雲、林紹琴、克秀山、李紫仙、周福喜らから京劇の青衣、花旦、刀馬旦の芝居を学ぶ。薛瑶卿から昆劇の芝居を学ぶ。「新舞台」に参加して夏月恒、夏月珊、夏月潤、潘月樵、馮子和、毛韵珂らと共演する。田漢と共に戯曲改革を提唱して積極的に取り組んだ。京劇を基礎に南北各派の芸風を融合させ、大胆な改革を行って戯曲界に大きな影響を与えた。

 

梅蘭芳(1894-1961)

 名を瀾。原籍は江蘇泰州、北京生まれ。祖父・梅巧玲(1842-1882)は「同光十三絶」のひとりで有名な旦。父の梅竹芬(1874-1879)も旦を演じていたが早逝した。伯父の梅雨田(1865-1912)は有名な琴師。
 九歳のときに姉の夫・朱小芬の家で芝居を学び、呉菱仙から最初に指導を受けた。十一歳のときに初舞台を踏み、十四歳の時に喜連成科班に入る。1913年に王風卿に随って初めて上海へ行って公演し、好評を博す。翊文社、双慶社、喜群社、崇林等班で譚鑫培、陳徳霖、楊小楼、銭金福、余叔岩、言菊朋、王長林らと共演する。最初の頃は青衣の芝居が主であったが、のちに花旦、刀馬旦の芝居も習って公演するようになった。舞台のヘアメイクや衣装に大胆な改革をし、新しい舞踊を作り出し、旦角の新しい表現を創っていった。1919年と1924年に日本、1930年にアメリカ、1935年にはソビエト連邦(現在のロシア)など海外公演を行い、世界的な芸術家としての名声を得る。門下には李世芳、言慧珠、杜近芳、顧正秋、息子の梅葆玖などがいる。

 

趙君玉(1894-1944)

 名を雲麟。原籍は安徽、上海生まれ。武生・趙小廉の子。
 最初は浄を学んでいたが、のちに武生を学び、小生になってから君玉に名を変える。長い間、馮子和と共演する小生であった。後に旦角になってから頭角をあらわすようになる。譚鑫培や梅蘭芳とも共演して名を広めた。南派旦角の代表である馮子和と北派旦角の代表である梅蘭芳のそれぞれの芸風を演じ、夏月珊、欧陽予倩の影響を受け、時装戯の公演にも参加した。