中国京劇雑記帳

京劇 すごく面白い

京劇演目紹介《秦香蓮》

2023/11/29更新

 

出世欲に眩み糟糠の妻を殺さんとする不届き者は

何人たりとも許すまじ

 

 

あらすじ

 宋朝仁宗の時代。

 湖広荊州の貧しい書生の陳世美は、妻の秦香蓮に後事を託して科挙試験を受けるために都に赴く。そして見事状元となるが、秦香蓮たちに知らせることなく、皇太后に気に入られて駙馬(皇帝の女婿)に迎えられる。

 それから三年、秦香蓮は夫の帰りをずっと待っていたが、大旱魃による飢饉で両親は亡くなり生活はどんどん苦しくなっていく。困った秦香蓮はふたりの子どもたちを連れて夫を捜しに上京する。

 宿場の主人・張三陽から夫の消息を聞き、秦香蓮たちは駙馬府に押しかける。陳世美との再会を果たすものの、今までの地位を守りたい陳世美に追い出されてしまう。

 秦香蓮はそのときちょうど御前会議を終えて退朝してきた宰相・王延齢の輿を見止め、自分に非がないことを訴える。王延齢は陳世美の誕生祝いを機に秦香蓮も駙馬府に連れて行き、故郷の音楽で作曲させて陳世美に聴かせることによって心を動かそうとした。しかし陳世美は頑迷であくまでも非を認めず、無関心を装い、逆に事実無根だと言い捨てる。王延齢も万策尽き、自分の扇子を与えて秦香蓮に開封府の自分の弟子にあたる包拯に訴えるように薦めた。

 一方、陳世美は家将・韓琪に秦香蓮母子を殺すように命じ刀を渡す。何も知らされていない韓琪は母子を三官廟に追いつめるが、秦香蓮から事の顛末を聞いて義憤に燃える。それで見逃がすことにしたが、部下として命令を果たすことなく刀に血がついてないことを如何ともし難い韓琪は自刎してしまう。

 秦香蓮はその刀を証拠に包拯に陳世美を訴える。包拯は陳世美を開封府に呼んで、身内を認めるよう説きつつ訴状を突き出す。しかし、陳世美はすでに皇族であることを頼みに詭弁を弄して責任を逃れようとする。包拯は法規を守らんと陳世美を捕えるように命じる。

 皇太后と皇女はこれを聞いて開封府に赴き、陳世美を救い出すために権力を盾に秦香蓮の子どもたちを人質に奪って脅しをかける。包拯は民心を安んずるため、正義を守り通すために厳粛に法を執行されなければならぬとして、自分の免職、ひいては死罪を覚悟で陳世美の断頭を命令する。

 

 

ポイント

 役柄が充実しているききどころの多い芝居。

 秦香蓮が奏でる琵琶とともにうたう《祝寿》、ここはセリフのやりとりもおもしろい。

 追い詰めた秦香蓮たちから真相を聞いて韓琪が自刎してしまう《殺廟》も緊迫感にあふれている。

 やはりメインは包拯が次第に陳世美を追い詰め、最後には斬る斬らないの選択を迫られる《鍘美案》。

 

 

解説

第一場 送別 陳世美が故郷を離れて秦香蓮に後事を託す
第二場 招贅 状元になった陳世美は秦香蓮たちを捨てて皇女と結婚する
第三場 投店 陳世美を探して上京した秦香蓮は宿泊先でその消息を知る

 この芝居はこの場面から始まることが多い。

 宿主の張三陽は人が善く、秦香蓮たちをかわいそうに思ってご飯を食べさせ、駙馬府にも連れて行ってあげる。ちなみに子供たちは双子で、男の子と女の子。

 

第四場 闖宮 秦香蓮たちは陳世美と再会するのも追い出される

 駙馬府の門官は最初秦香蓮たちを相手にしなかったが事情を聞いて驚く。さっそく取り次ごうとするも陳世美は拒絶、お金を渡して追い払うように言われる。

 秦香蓮たちを気の毒に思う門官は、一計を案じて秦香蓮に着物の裾をちぎって自分に渡すよう言う。それを貰い受けて中へ通し、陳世美との再会を果たさせる。怒る陳世美に門官は、無理やり入ってくるのを止めようと裾を掴んだがこの通り切れてしまったと裾の切れ端を見せて言い訳する。

 陳世美は怒り出すがやはり人の子、秦香蓮から両親の死を耳にして、父を慕って泣き叫ぶ子供二人に囲まれて情を動かされる。しかし、富と名誉をとった陳世美は結局、秦香蓮たちを冷たく追い出してしまう。

妻子を冷たくあしらう陳世美

 

第五場 遇相 秦香蓮は宰相の王延齢に訴える

 訴えに来た秦香蓮の事情を聞いて驚く宰相の王延齢。

 王延齢は一計を案じて、ちょうど明日、陳世美の誕生日で祝いに駙馬府を尋ねることになっていることから秦香蓮も連れて行くことにする。

 

 

第六場 祝寿 王延齢は陳世美の誕生祝いに秦香蓮を連れて歌わせる

 新しい妻と機嫌よく登場する陳世美。

 誕生祝い訪れた王延齢を陳世美は機嫌よくもてなす。

 王延齢は、宴席に興を添えるために舞い歌ういつもの宮女たちも見飽きた、憂さ晴らしにたまには変わったものがよかろう、例えば、街で歌っている女の歌を聴いて大変感動したと話を持っていく。

 そんな俗なものと言って面白くもなさそうな陳世美の態度を見て、

「じゃあわしは帰らしてもらう」

と言って去ろうとする王延齢。陳世美はさすがに上司の機嫌を悪くするのはまずいと思って引き止める。

 そして王延齢は自分の家のものに連れて来させたと言って秦香蓮を召し出してくる。陳世美は秦香蓮を見るなり、そば近くに仕える太監に叫ぶ。

「追い出せ!」

「まあ、待ちたまえ。駙馬どの、きみはこの者と知り合いなのかね?」

ととぼけて尋ねる王延齢にあわてて取り繕って陳世美は言う。

「この者、私の喜ばしい日にボロを纏ってしかも孝服(葬式の時に着る服)とはどういうわけですか?」

「歌を聴くのだ。服なんて構わんだろう」

 奏でるのは、偶然(と言ってもちっとも偶然ではないが)陳世美の故郷・荊州の楽曲と聴いて興味を募らせる王延齢。とにかく顔も見たくないであろう陳世美は宴席ではなく秦香蓮を廊下で歌わせようとする。しかし、耳が悪いからここで聴きたいを言ってごねる王延齢。

「そとへ!」

「ここで!」

「廊下に出て歌え!」

王延齢は飄々とだまって席を立つ。

「大臣さま、お待ちください!」

こうして陳世美は歌をきかされる羽目になる。

 秦香蓮が琵琶を弾いて恨み言を述べていくうたのくだり「琵琶詞」は聞きどころ。

 『東周列国志』の「唇亡歯寒」「五張羊皮」によると春秋時代百里奚はもともと虞国の大夫であったが、虞は滅ぼされ、紆余曲折を経て秦国の丞相に収まる。離れ離れになっていた妻がある宴席の楽隊に紛れ込んで、別れの情景うたった。それを聞いた百里奚は感動し、楽隊に妻の姿をみとめ一家再会を果たしたという。

 王延齢はこの故事にならって秦香蓮を連れてきたのだったが…陳世美は感動するどころか歌を聴く度に怒りを抑えるのに一苦労。その歌というのが陳世美と秦香蓮のことを歌っているものであり、陳世美は知らないふりを突き通す。機嫌を悪くしていく陳世美と、事情を知らないようかのように振舞いつつ突っ込んでくる王延齢のやりとりが滑稽。

 秦香蓮は琵琶を手にしているが実際弾くことはなく、その演技とかたわら楽隊の月琴が奏でる。佳境になると他の楽器も参入して琵琶を抱えながらのせつせつとしたうたとなる。

気が気でない陳世美 琵琶を奏でる秦香蓮 素知らぬ振りの王延齢

秦香蓮   〈唱〉

      夫東に在り妻西に在り 鵙と燕が別々に飛ぶように離れ離れのふたり

      深閨にただ新しき人の笑うのを見て なぜ旧き人の嘆きを聞かないのか

 

「お聞きになられたか?夫婦であって夫婦でない…」

と訊く王延齢の話をまるで聞いていない陳世美。

「ええと、酒が冷めましたかな?」

「いいや、構わん。この『新しき人が笑い、旧き人が嘆く』とな。ううむなんとも妙!情が無いとはなんとも怒りで熱くなるものだ」

「人の世の暑さ寒さを気にしておられるようですが、料理が冷めているようですな」

「構わんよ。口の中は冷めていても、心の内は熱い。お分かりかな?」

「ふん!」

陳世美は不機嫌にそっぽを向く。

 

秦香蓮   〈唱〉

      別れるときにこの胸に刻み付けた話

      夫は高い位を得ても糟糠の妻は絶対に捨て去ることはできないと

 

 陳世美、今度は寝たふり。

「漢代の功臣・宋弘の言葉『貧賤の交わりを忘れるべからず、糟糠の妻を堂より下さず』ですなあ。覚えておられるかな?」

と、陳世美に向かって王延齢は牽制する。

 この宋弘とは後漢光武帝の家臣。光武帝の姉が美丈夫の宋弘を気に入り夫にと望む。しかし、宋弘はすでに妻のある身。光武帝が妻とは別れて姉との縁談を薦めると宋弘はこの言葉を口にした。貧乏だった頃の友人を忘れてはいけないし、貧乏で糠しか食べられなかったころ、つまり苦労を共にしてきた妻を家から追い出してはならない。

 

秦香蓮   〈唱〉

      不幸にも荊州旱魃にあうこと三年 草も生えず

      悲惨にも家には食べるものもなく

      父母は子を思って死んでいきました

      私は土を盛って墓を作り 夫の父母を葬ったのでした

 

「この孝行ぶりは趙五娘に匹敵しますなあ」

と王延齢は持ち出す。

 この趙五娘とは「琵琶記」という話の主人公。結婚したばかりの夫が父のいいつけで上京し、試験をパスして高い官位を得るものの宰相の娘と強引に結婚させられる。趙五娘は夫の両親の面倒をよく見ていたが飢饉で亡くなり、隣人の協力のもとなんとか葬式を出す。尼のいでたちで道々琵琶を弾きつつ都に向かい、ついに夫を探し当てる。

 陳世美・秦香蓮夫婦と異なるのは、趙五娘の夫は思うように身動きがとれず常に妻や両親を想って悲しんでいるところ。その理由を知らないで心配する宰相の娘も気の毒である。最後には趙五娘、夫、宰相の娘の三人はそろって帰郷し両親の墓参りをする。しかし、秦香蓮のほうはそうはいかない…。

 

秦香蓮   〈唱〉

      千里はるばる乞食をして都に上り

      男の子と女の子の双子の子供たちは苦しみを受けてきました

      聴いたところによれば夫は科挙に受かったとのこと

      本当なら夫婦身内で喜ぶはずであるのに

      あの人が富貴を貪り かつての情を忘れてしまうなんて

      誰が知っていたというのでしょう

      むごい夫!無情にも肉親に異郷を流離わせるなんて!

 

「その夫とはなんという名なのかね?かまわないから言いなさい」

と尋ねる王延齢に躊躇いながら答える秦香蓮。

「名は…陳世美です!」

「無礼者!」

陳世美の横に控えていた太監が怒り出す。が、すかさず

「ばか者!」

王延齢、一喝。反射的に身体ことひれ伏す太監が滑稽である。

「世の中には同姓同名がいるものだ!この虎の威を刈る狐め!なあ、そうであろう?駙馬どの」

 取り繕う陳世美についでのように怒られた太監は下がる。気の毒なこの太監は丑、小花臉が演じている。

 王延齢は歌を続けるように促すが秦香蓮は胸が詰まってもう歌えないと言う。王延齢はしばらく陳世美と秦香蓮のふたりだけにしようと一端下がる。

「お前は私の前途を台無しにする気か!」

 怒り出す陳世美。二人は泥沼の夫婦喧嘩を始める。しまいにはおせっかいにも関わってきてこのことを仕組んだ王延齢に対しても怒り出す始末。

「まあまあ、陛下にはわしからうまく言っておくから任せておきなさい」

「この陳世美、一に君主を欺かず、二に民を害さず!何を任せるとおっしゃるか?!」

「何?!一に君主を欺かず、二に民を害さず、とな?!」

王延齢は陳世美の開き直りに驚きを隠さず、秦香蓮を見て言う。

「ふふん!君主を欺き民を害す動かぬ証拠、現に今ここにあるではないか!」

「私のことには関わらないでいただきたい!この女を身内と認めるのが必要ならあなたがなされるがよい!」

「はあ?私が認めてどうする?」

「この女を連れ帰って、憂鬱なときは歌わせて気を晴らすとよろしいでしょうが!」

 かくして、自分ではもう手に負えないと感じた王延齢は切り札・包拯に秦香蓮を託し、一方、陳世美は秦香蓮殺害を企てることになる。

 陳世美は部下の韓琪に刀を渡して、秦香蓮たちを追って始末するよう命令する。また、殺した証に刀についた血を見せるよう指示する。

 

 

第七場 殺廟 秦香蓮母子暗殺を命令された韓琪は真実を知って逃がすために自刎する

 前半のクライマックス。

 逃げ惑う秦香蓮たち、刀を振り上げて追ってくる韓琪。

 追い詰められた秦香蓮はどうして自分たちを殺そうとするのか問う。

事情を知らぬまま逃げ惑う母子を追い詰める韓琪

 韓琪はそこで本当のいきさつを聞き陳世美に怒り、秦香蓮たちを逃そうとする。しかし、殺した証に刀についた血を見せなければならない。

 秦香蓮は殺すなら自分を殺して子供だけは助けて欲しいと哀願する。それを聞いて悲しむ子供たちは縋り付いて一生懸命命乞いをする。

 悩みに悩む韓琪、ふいに心を決めたかのように手にしている刀をじっと見つめる。

「我には天地が知る死あるのみ。この世に潔白であることを留めん!」

韓琪は自尽する。

 傍らには恩人の死を悲しみ泣き叫ぶ母子の姿。嘆きとともに沸き起こる怒り。秦香蓮は血にまみれた刀を手に覚悟を決めるのであった。

 韓琪の役はだいたい立ち回りに長けた武生が演じる。

 くるりと一回りして刀を首に当てたのち、体を思い切り後ろに反り返らせて勢いよく倒れ込む「僵尸」という技がみどころ。

 韓琪の男気に感じ入り、緊張感にハラハラさせられるシーン。

 

 

第八場 公堂 包拯は居直る陳世美を捕える

包拯 ついに登場

 鉄面無私、清廉潔白、民衆に大人気の清官・包拯が登場。

「不忠不孝、皇室といえども国家の法からは逃れ難し」

と息巻いて陳世美を呼び出す。

 

 

 陳世美の召喚に赴いた包拯の部下・王朝は陳世美がただでは来るまいと一計を案じ、陳世美に韓琪殺しを名乗り出て、自分を犯人として引き渡そうと包拯のもとへやってこさせるようにしむけた。

 包拯は王朝の鎖を解いて

「本当の犯人は私が捕えております」

と、秦香蓮を召し出す。

 秦香蓮を見て思わずカッとした陳世美は刀を突き立てる。

「お待ちください!知り合いですかな?」

「…いや、知らぬ!」

 秦香蓮をいったんその場から退場させた後、包拯は詰め寄る。

「千里のかなたからやって来た母子三人、認めるべきではないのですか?」

「そんなこと知るか!」

駙馬府に戻ろうとする陳世美を包拯は押し留める。

 シラを切る陳世美と問いただす包拯。

 二人の唱の掛け合いはリズムがどんどん速くなって緊張感を増していく。最後に包拯が陳世美の腕を掴んで共に広げられた訴状のもとへ歩みより、早口でまくし立てるようにうたい読み上げる。この芝居の最もすばらしい聴きどころ。

 

包拯    〈唱〉

      この包拯 開封府にあり

      駙馬どの よくお聞きください

      かつて端午節の折り 天子にご機嫌伺いをしたことを

      覚えておいでかな

      あなたがこの話をしたときのことを

      婿入りの話があったとき あなたは顔色をお変えになった

      私はあなたにはすでに妻がいるのだと思ったものだ

      今こうして妻子が来てあなたを訪ねてきている

      受け入れるどころか反って彼女たちをさいなむのか

      私はあなたに諭したい 香蓮たちは筋が通っている

      ここにきて後悔しても仕方のないことでしょう

陳世美   〈唱〉

      そなたの言っていることは思い込みだ

      私の言う事の起こりを聞きなさい

      この一番に受かった進士・陳世美

      皇帝が御自ら筆を用いて私を状元として認められたのだ

      私は三日間宮殿にいたところ 公主との良縁にあったのだ

      証拠もなければ見たものもいない

      そなたは私に何を認めろというのか?

包拯    駙馬どの!

      〈唱〉

      駙馬どの 言葉巧みに仰る必要はない

      今こうして法廷に証拠があるのですぞ

      香蓮の訴状を見せましょう おい!

王朝    はい!

 

 王朝が膝まづいて訴状を掲げる。包拯が陳世美の手を引いて誘い、指を挿しつつそれを早いリズムで読み上げてうたう。

王朝が広げる訴状を陳世美に読み上げて聞かせる包拯

包拯    駙馬どの!

      〈唱〉

      駙馬どの お近くで御覧あれ

      秦香蓮三十二歳 被告当朝駙馬 天子を欺き婚姻を悔いて婿となり

      妻子を殺そうと良心を失い 廟堂にて韓琪を死に追いやった

      訴状を私の机の上に持っていきなさい

 

 いつもここで客席からすかさず「好(ハオ)!」と声がかかる。

 

王朝    はい!

包拯    〈唱〉

      さてあなたはどうなさるのか?

 

 再び召し出された秦香蓮は、声高々に陳世美を訴える。それでも知らぬ存ぜぬを通す陳世美。

「私が命じた証拠があるのかね?」

「ここにあるのは殺しに使ったお前の刀だ!」

 秦香蓮が持ってきた証拠、陳世美が韓琪に渡した刀を投げ渡される。

 冤罪だと嘯くにももはや限界、陳世美はこのことを皇帝に奏上すると言ってとりあえずその場を去ろうとする。ここまで証拠がそろっているのに何を奏上するのかと引き止める包拯に、陳世美は開き直って冷ややかに言う。

「たとえ訴えるものがあろうが、私は当朝の駙馬。どうしようというのかね」

 陳世美の出した切り札、普通ならこれでやり込められるはずだった。しかし相手が悪かった。大道正義のためならば、自分の身内も容赦せず、斬って棄てるはこの包拯。

 包拯、ついにキレる!

 怒りに眼を剥き出し、振り下ろした水袖を思い切りよく掴んで後ろに手を組み、陳世美に向かって

「ペイッ!」

と一言投げつける。

 勢いよく跳ね飛ばされて宙を舞う烏沙帽。身に纏った官衣は剥がされ、牢獄へと誘われる陳世美。ここは見ていて胸がすくシーンでもある。包拯が民衆に人気である理由もわかろうというもの。

あっという間に罪人へ

 

 

第九場 鍘美 皇太后と皇女が圧力をかけるものの包拯は陳世美の刑を執行する

 陳世美が捕えられたのを聞いて開封府に皇太后と皇女やってくる。

 陳世美はすでに皇室の身内、包拯には任せて置けないと、ふたり自ら判決を下すとして包拯を下がらせて開廷する。

皇室から圧力を受ける包拯

 秦香蓮は法廷に呼ばれて尋問というより一方的に非難されて命令される。権力を前にして屈しない秦香蓮に対して、皇后と皇女は子どもを捕えて訴えを取り下げるように迫る。

 窮した秦香蓮は堂鼓を叩いて包拯を呼び出す。

「こんなことではいかに民を安んじられましょうか」

包拯は急いで命じて子どもを放させ皇后と皇女を諌める。

 しかし、皇后は陳世美を釈放しないと自分が死ぬとまで言い出す。

「皇室のことは判じ難し」

地団駄踏む包拯は悩みに悩み、銀三百両を持ってこさせて秦香蓮に渡す。

秦香蓮たちに諭すが…

 一家の団欒は望めないがこのお金でもう生活に困ることはない、一生懸命勉強するのだぞ、と子どもの頭をなでながら言い聞かせてうたう包拯。

 しかし、秦香蓮にとってはすでにお金で解決できる次元ではなくなっていた。受け取りを拒むも半ば強引にお金を受け取らされた秦香蓮は悲しみの声でうたう。

 

秦香蓮   〈唱〉

      香蓮 法廷を下がり涙乾かず 三百両の銀と夫を引き換えに

      これより私は無念の死も訴えることもない

      人は包公を公正無私とはいうものの

      やっぱり官吏は官吏どうし守りあって関わりあっているんだわ

 

「なに?!」と目をむく包拯。

 

秦香蓮   〈唱〉

      私はただ無念に死んでいったお父様とお母様を嘆いて

      ただただ叫ぶわ

      この世は人殺しの天下だと!

殺了人的天!

 「殺了人的…」とゆっくり上り詰め「天(てぃえーーえ ええええ え え えーん)!」で一気に高音で叫ぶようにうたう。

 銀三百両の包みを投げ捨てて、涙ながらに子どもを連れてその場を去ろうとする秦香蓮。

 包拯は「待て!」と呼び止める。

 「鉄面無私」と言われる包拯、やはり正義の前に身分は関係ないのだ。

 

包拯    〈唱〉

      香蓮 法廷を下がり 我を恨んで官吏の馴れ合ういう

      本来斬るべきは陳世美…

国太    大胆な!無礼千万!

包拯    〈唱〉

      皇后は懸命に死を賭して止めに入り

      陳の斬首をためらわす…

秦香蓮   無実です どうぞ正義を!

包拯    〈唱〉

      二つの難事をかかえてしまったこの包拯

 

 さあ、どうする?

 包拯は意を決して自分の官位を示す烏沙帽をゆっくりと脱ぐ。

 つまり、それが包拯の答えであった。

 続けてうたう。

烏沙帽を脱いで筋を通す

包拯    〈唱〉

      皇家に仕える身ではなせぬこと

      天が崩れ落ちる災いが起ころうと

      責めはこの包拯が引き受ける!

包拯    死刑執行人!

劊子手   はい、ここに!

 

 包拯は左手に高々と烏沙帽を掲げ、右手で空を指差し、低く唸るようにゆっくりと叫ぶ。

「断頭せよ!」

「はっ!」

 刑の執行人たちの返事。

 憔悴しきった秦香蓮と泣き崩れる皇女。

 包拯は立ち尽くす。

 嗩吶の尾声(エンディング)で幕が下りる。

 

 

データ

 中華人民共和国成立後、中国戯曲研究院が地方劇を参考に《鍘美案》をもとにして改編。

 京劇では以前《鍘美案》のみ演じられ、花瞼が中心の芝居であった。初期の頃は穆鳳山、劉永春、金秀山、金少山、裘桂仙等名家の俳優たちの得意な演目であった。

 1956年北京京劇団成立後、馬連良、譚富英、張君秋、裘盛戎が加わって四大看板役者が合作で《龍鳳呈祥》、《趙氏孤児》、《法門寺》等の「群戯」(さまざまな役柄がでる芝居)を演じた。《秦香蓮》も四大看板役者が共演した代表演目のひとつである。

 芝居上、「旦」(秦香蓮の役)の張君秋と「浄」(包拯の役)の裘盛戎を中心であるが、さらに馬連良(王延齢の役)と譚富英(陳世美の役)が花を添え、演じられるや否や好評を博した。

 この芝居はもともと「賽琵琶」という。劇中出てきた「琵琶記」、これのもととなっている南戯「趙貞女蔡二郎」では、趙五娘の夫は陳世美と同じく糟糠の妻を捨て最後には天罰が下って雷に打たれて死ぬ。家族で幸せに暮らせる日が来ることを信じて、夫の帰りをひたすら待ちつつ夫の両親に孝行を尽くす趙五娘に対し「善行は報われる」という大衆心理を体現するためか、「不忠不孝」から「全忠全孝」の夫に変えられている。名誉と富を得た途端の心変わりを描く「負心戯」は少なくない。

 「賽琵琶」では秦香蓮が駙馬府を追い出され殺されそうなって逃げ込んだ廟で死のうとしたとき、神々に助けられ兵法を授けられる。秦香蓮は西へ兵を率いて遠征し、功績を認められて陳世美を裁く機会を与えられる。この部分を留めた江蘇省一帯の地方劇・淮劇では結末を陳世美は斬られることなく大団円としたが、後に陳世美は斬られる結末にもどして演じられている。いささか超常現象的な展開で喜劇の結末より、清官が貪官をやっつける京劇のほうが、もはや家族愛を望めない秦香蓮は悲劇ではあるが大衆心理にかなっているということだろうか。

 

秦香蓮  青衣

包拯   黒頭花臉(銅錘花臉)

陳世美  老生

王延齢  老生

韓琪   武生

国太   老旦

 

鑑賞

CCTV戯曲

1964年制作 北京京劇団

張君秋 馬連良 裘盛戎 李多奎 譚元寿 馬長礼

youtu.be

0:03:14 第一場 送別

0:08:37 第二場 招贅

0:16:05 第三場 投店

0:19:47 第四場 闖宮

0:38:15 第五場 遇相

0:45:08 第六場 祝寿

1:10:25 第七場 殺廟

1:23:18 第八場 公堂

1:43:13 第九場 鍘美

 

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