中国京劇雑記帳

京劇 すごく面白い

歴代の主な京劇俳優 老生(1)

初出 2003/03/08

 

 

程長庚(1811-1880)

 本名を椿、字を玉山、一説に玉珊。安徽潜山人。父・程祥桂は清・道光年間の三慶班の責任者。
 幼い頃から三慶班で学び、道光二年(1822)父と共に北京に来る。《文昭関》、《戦長沙》などの公演で頭角をあらわし、のちに三慶班の看板役者になる。道光から咸豊年間に三慶班を任され、精忠廟(俳優の労働組合)の廟首(組合長)として、三慶、春台、四喜の三つの班の総管理人となる。実直な人柄を慕われ、同業者からも尊敬されていた。晩年は人材育成に力を入れ、陳徳霖、銭金福、張淇林などを排出した。楊月楼、譚鑫培、汪桂芬、孫菊仙などが弟子にあたる。孫の程継先は小生。

 

張二奎(1814-1860)

 本名を士元、字は子英。原籍は河北衡水。一説では安徽、または浙江人。
 清・道光年間の時に工部都水司経承したが、芝居が好きで票友として和春班で客演する。二十四歳のときに役者となって正式に入団。のちに四喜班に入って看板役者となる。王帽戯(帝王が主役の芝居)を得意とし、武生の芝居も演じた。咸豊年間に大奎官(劉万義)とともに結成した双奎班ではシリーズ物を手がけた。弟子には楊月楼、汪菊芬などがいる。

 

余三勝(1802-1866)

 本名を開龍、字を啓雲。湖北羅田人。
 もともとは湖北漢調の役者であったが、清・道光年間初めのころに北京に渡る。春台班の主演となり、同治二年(1863)広和成班に入団。漢調を基礎として徽調、昆劇、梆子腔を融合し、湖北音をメインにしたうたい方で、当時は「漢派」または「余派」と呼ばれた。息子の余紫雲は旦、孫の余叔岩は老生。

 

譚鑫培(1847-1917)

 本名を金福、字を鑫培。原籍は湖北江夏。老旦を演じていた父・譚志道は「叫天」と呼ばれていたことから「小叫天」とも呼ばれた。
 幼い頃に金奎科班で老生を学び、のちに永勝班に入る。変声期の頃に武生に変えて北方で活躍。北京に戻ってきてからは三慶班に入団。立ち回りの芝居で頭角をあらわし、座長の程長庚に目を掛けられる。変声期を経てノドが安定した後、老生の芝居を再び演じる。程長庚の弟子である一方、多方面に渡る秀でた才能から余三勝、王九齢、張勝奎などからも芝居を学んだ。継承者には劉春喜、賈洪林、貴俊卿、余叔岩、息子の譚小培、娘婿の王又宸などがいる。「伶界大王」と呼ばれ、「譚派を学ばない生は無い」と言われるほど京劇界に強い影響を与えた。

 

汪桂芬(1860-1906)

 名を謙、字を艶秋、号を美仙、小名を恵成。湖北漢川人。
 幼い頃は老旦を学び、声変わりの後に樊景泰の門下で楽器を学ぶ。清・光緒六年(1880)、ノドが回復してから春台班に入って好評を博し、程長庚の再来と褒め称えられた。師である程長庚の芸風をもととして、「汪派」の芸風を確立した。王風卿がその芸風を継いでいる。

 

孫菊仙(1841-1931)

 名を濂、字を宝臣。天津人。
 武芸に優れ、清の軍隊に所属していた。票友として金声茶園で客演を行っていた。三十六歳のとき、程長庚に弟子入りし、俳優となる。崇祝成、三慶、四喜、天慶班などさまざまな劇団で活躍する。1885年に王九齢の死後、四喜班の主任を引き継ぎ、翌年には昇平署へ選出される。天津では”老郷親”といわれ、名を成した後プログラムでもその名を使われるようになり、芸名となった。若手を熱心に起用して馮子和、尚小雲などがよく教えを受けた。双闊亭、時慧宝は孫派をよく受け継ぎ、劉鴻声、周信芳、高慶奎、馬連良などが影響を受けた。