中国京劇雑記帳

京劇 すごく面白い

歴代の主な京劇俳優 老生(2)

初出 2002/03/21

 

 

王鴻寿(1850-1925)

 芸名を三麻子。江蘇人。
 幼い頃は家で昆劇の武丑と徽劇の靠把老生を学ぶ。青年のとき、「太平天国の乱」では反乱軍の劇団に属す。反乱終息後は江南の地方劇団で公演をする。清・同治十年前後、上海で慶楽、天仙、天楽、丹桂などの茶園で公演をする。1908年には北方へ行き、天津、北京で関羽の芝居を演じて、独特の関羽像を創った。周信芳、李洪春、林樹森、劉奎官などが弟子にいる。夏月潤、李吉来、唐韵笙などが演じる関羽は強い影響を受けた。

 

汪笑儂(1858-1918)

 本名を徳克金、又は僢。字を潤田、舜人、号を仰天。満族。北京生まれ。
 光緒五年(1879)に科挙に合格。翠峰庵票房で芝居を学ぶ。孫菊仙の指導を受けて、後に長期滞在した上海で公演をする。辛亥革命の後、天津で正楽育化会副会長及び戯劇改良社社長となる。1916年再び上海に赴き、貧困の中で病逝する。

 

劉鴻声(1879-1921)

 鴻昇、鴻生ともいい、字を子余、号を澤宝。北京順義県人。
 京劇が好きで後に翠峰庵票房で「浄」を学ぶ。1895年に俳優となり、同春、四喜班で譚鑫培、孫菊仙と共演する。玉成班に入ってからは主演をつとめて評判を得る。1909年に上海へ渡り、老生を演じるようになる。辛亥革命の後、北京に戻って広和楼で鴻慶班を結成し、自らが主演を務める。名を成した後も浄や老旦の芝居を演じた。

 

余叔岩(1890-1943)

 名を第qi[衣+其]、湖北羅田人。余三勝の孫、余紫雲の息子。
 少年時代は「小小余三勝」の芸名で天津で公演し、頭角をあらわす。後に病気と声変わりのために北京に戻って、妻の父・陳徳霖の援助を受けて、銭金福、王長林などから立ち回りの芝居、姚増禄から昆劇の芝居を学ぶ。また、陳彦衡、愛新覚羅溥侗(紅豆館主)、王君直などから譚派の唱腔を学び、後に春陽友会に入って樊棣生、世哲生、鉄林甫などと芸を磨く。後に譚鑫培に拝師。1916年にノドが回復してから梅蘭芳の劇団の公演で舞台に復帰。1917年に譚鑫培が去った後、フリーとなる。譚鑫培の芸風を基礎に自らの芸風を確立し、「新譚派」または「余派」と呼ばれるようになる。弟子に楊宝忠、譚富英、王少楼、孟小冬、李少春などがいる。妻の弟・陳少霖も彼に学んだ。

 

高慶奎(1890-1940)

 名を鎮山、字を子君。原籍は山西楡次、北京生まれ。清末に丑を演じていた高四保の息子。
 幼い頃に祥慶和科班に入り、賈麗川(賈洪林の叔父)から老生を学ぶ。十二歳のときに初舞台を踏む。1919年梅蘭芳に随って日本公演に行く。1921年慶興班を結成し、侯喜瑞、郝寿臣らと共演する。最初の頃は譚派、後に劉鴻声に学ぶ。甲高く激しいうたうその芸風を「高派」と呼ばれるようになる。四十六歳のときにノドを壊してから人材育成に力を入れた。弟子には白家麟、李和曾、李盛藻、息子の高盛麟がいる。

 

言菊朋(1890-1942)

 本名を錫、号を延寿、蒙古族。北京人。
 幼い頃から京劇の老生が好きで、もともとは「譚派」の票友であったが、譚鑫培と共演した王瑶卿、銭金福、王長林、鮑吉祥らと交流し、譚派を学ぶ。さらに陳彦衡、愛新覚羅溥侗(紅豆館主)から指導を受ける。1916年前後に言楽社、春陽友会で公演をして評判になる。1923年、梅蘭芳に随って上海で公演をし、俳優となる。二十年代後半からフリーになり、譚派を基礎として自らの芸風「言派」を確立する。